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明智光秀、本能寺の変までの足跡を辿って!

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が絶賛放映中です。ドラマの舞台が美濃国から都(京都)に移り、京都、丹波(亀岡)を中心に戦乱の時代を生きた武将の足跡を辿ってみました。

 

光秀の生地は美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われています。

土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、道三の庶子、義龍に明智城を攻められ、一族は離散した。

光秀は越前国の朝倉義景を頼り、妻煕子ら家族と共に10年間仕えることになる。

その後足利義昭と信長の両属の家臣となり、永禄11926日足利義昭の上洛に加わる。

信長は、妹婿の浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000人を主力に、秀吉と共に防戦に成功する。

信長は将軍を重んじ足利義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻した。

足利義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

光秀は、天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆に参加する。

その後信長に丹波国攻略を任される。

同年117日(15761127日)正室の煕子が坂本城で病死する。

この頃、光秀は余部城を丹波の本拠にしていたが、安定した本拠地として亀山に城を築くことを決め築城に着手する。

また、光秀は信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。ところがこの段階では亀山城は完成しておらず、村重の乱を知った波多野軍は一時、八上城を包囲する明智軍に攻勢をかける。

光秀の三女・玉子(ガラシャ)と細川忠興が勝竜寺城で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であった。

光秀は亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名した。「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。

天正10年(1582年)5月、徳川家康饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、同年62日(1582621日)早朝に出陣する。

その途上の亀山城内で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。

光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。

光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害したとされている。

そらいろスタッフ 早川繁好